こんにちは三国志大好きな黒猫兄弟です。私の三国志との出会いは中学生時代に図書館で読んだ横山光輝さんの漫画を読んでから三国志に興味を持ち、ファミリーコンピューターの歴史シミュレーションゲーム三国志にはまった事で大好きな物語でした。その中でも主人公劉備の立身出世を支えた関羽にスポットを当てて小説風に紹介致します。
序章:乱世に結ばれし絆
後漢末期、天下は乱れ、民は塗炭の苦しみを味わっていた。黄巾の乱が吹き荒れる中、各地で義勇兵が立ち上がり、それぞれの志を胸に戦乱の世を駆け抜けていた。その中に、後の蜀漢の礎を築く三人の男たちがいた。劉備玄徳、関羽雲長、そして張飛益徳である。
関羽は、司隷河東郡解県に生まれた。その生年は定かではないが、若き日より並外れた武勇と、何よりも「義」を重んじる心を持っていた。彼の故郷は塩の産地であり、その利権を巡る争いが絶えなかったという。そうした中で、関羽は何らかの罪を犯し、故郷を離れて幽州へと流浪の旅に出ることになる。その道中、彼は己の力を正義のために振るうことを誓い、乱世を憂う心を深く抱いていた。
涿郡の地で、関羽は一人の男と出会う。その男こそ、漢の皇室の末裔を自称し、民のために立ち上がろうとする劉備玄徳であった。劉備は温厚な人柄と、困窮する民を救おうとする強い志を持っていた。関羽は劉備のその高潔な精神に深く感銘を受け、彼こそが乱れた世を正すに足る人物であると直感した。そして、劉備の傍らには、もう一人の豪傑がいた。それが、酒と喧嘩をこよなく愛する猛将、張飛益徳である。張飛は関羽とは対照的に、感情豊かで直情径行な性格であったが、その根底には劉備への揺るぎない忠誠心と、弱きを助ける義侠心があった。
三人は言葉を交わすうちに、互いの志が深く共鳴し合うのを感じた。史実において「桃園の誓い」という具体的な儀式があったかは定かではない。しかし、彼らの間に結ばれた絆は、血の繋がりにも勝る、固く、そして深いものであった。劉備は関羽と張飛を兄弟のように遇し、寝食を共にし、彼らもまた劉備の身辺を片時も離れず、護衛として尽くした。関羽は張飛よりも年長であったため、張飛は彼を兄のように慕い、その武勇と義を深く尊敬した。
黄巾の乱が勃発すると、劉備は義勇軍を募り、関羽と張飛は劉備の左右を固めて戦場を駆け巡った。関羽は青龍偃月刀を振るい、敵兵を次々と薙ぎ倒した。その姿はまさに武神の如く、敵味方問わず畏敬の念を抱かせた。彼の武勇は「兵一万人にも匹敵する」と称され、その名は瞬く間に天下に轟いた。しかし、劉備軍は決して順風満帆ではなかった。兵力も物資も乏しく、常に苦難の連続であった。それでも、関羽は劉備の志を信じ、いかなる困難にも屈することなく戦い続けた。彼の心には、劉備と共に乱世を平定し、民に安寧をもたらすという、揺るぎない決意が宿っていたのである。
この頃の関羽は、まだその後の悲劇を予感させるような傲慢さを見せることは少なかった。ただひたすらに劉備のために尽くし、その武勇と義侠心で劉備軍を支え続けた。彼の存在は、劉備にとってかけがえのないものであり、張飛と共に劉備の天下統一の夢を支える両翼であった。乱世の幕開けと共に結ばれた三人の絆は、これから始まる長く、そして過酷な戦いの道のりを、共に歩むための確固たる礎となったのである。
2. 曹操との邂逅と「義」の試練
劉備は徐州を拠点としていたが、その勢力はまだ盤石ではなかった。建安五年(200年)、曹操は劉備を討つべく大軍を差し向けた。劉備は呂布との戦いで疲弊しており、曹操の猛攻の前に敗走を余儀なくされる。この時、関羽は下邳(かひ)を守っていたが、劉備の妻子と共に孤立してしまう。曹操は関羽の武勇と義侠心を高く評価しており、彼を自軍に引き入れたいと強く願っていた。曹操は関羽を包囲し、降伏を促した。関羽は劉備の妻子を守るため、そして劉備への忠誠を貫くため、三つの条件を提示して曹操に降伏した。
一つ、漢の臣として曹操に降るのではなく、漢の皇帝に降ること。二つ、劉備の妻子を傷つけないこと。三つ、劉備の消息が分かり次第、いつでも劉備のもとへ帰ることを許すこと。曹操は関羽の並々ならぬ義に感じ入り、これらの条件を全て受け入れた。こうして関羽は一時的に曹操の客将となる。曹操は関羽を偏将軍に任命し、手厚く遇した。毎日三度の食事には上等の肉を供し、美しい錦の衣を与え、赤兎馬まで与えたという。しかし、関羽の心は決して曹操になびくことはなかった。彼は常に劉備の安否を気遣い、その恩に報いる機会を伺っていた。
その機会はすぐに訪れた。曹操と袁紹が華北の覇権をかけて激突した官渡の戦いである。袁紹軍の猛将、顔良(がんりょう)が曹操軍を苦しめていた。曹操は関羽に顔良討伐を命じた。関羽は赤兎馬を駆り、単騎で敵陣に突入し、見事顔良を斬り、その首級を挙げた。この功績により、曹操は関羽に漢寿亭侯(かんじゅていこう)の爵位を与え、さらに厚遇しようとした。しかし、関羽は曹操の恩に報いたと判断し、劉備のもとへ帰る決意を固めていた。
関羽は曹操に別れの手紙を残し、劉備の妻子を伴って曹操のもとを去った。曹操の部下たちは関羽を追撃しようと進言したが、曹操は「彼を追うな。それぞれの主君に仕えるのは、義である」と言って関羽を見送ったという。このエピソードは、関羽の義の精神が敵である曹操にさえ認められたことを示している。演義では「千里行」として五関を突破する壮大な物語が描かれるが、史実ではそこまで劇的なものではなかったにせよ、関羽が劉備への忠誠を貫き、困難を乗り越えて再会を果たしたことは間違いない。
劉備との再会は、関羽にとって何よりも喜ばしいことであった。二人は互いの無事を喜び、固い抱擁を交わした。この出来事は、劉備と関羽の絆をさらに強固なものにした。関羽は曹操のもとでの経験を通じて、乱世を生き抜くための知恵と、己の「義」を貫くことの重要性を再認識した。そして、劉備と共に天下統一の夢を追い続けることを改めて誓ったのである。
3. 荊州の守護者としての苦悩と栄光
赤壁の戦い後、天下は魏、呉、蜀の三つ巴の様相を呈し始めた。その中で、荊州(けいしゅう)は戦略的に極めて重要な地となった。長江の中流に位置し、北は曹操の支配する中原、東は孫権の呉、西は劉備が目指す益州(えきしゅう)に通じる要衝であった。劉備は諸葛亮の「天下三分の計」に基づき、まず荊州を足がかりとし、次いで益州を奪取して蜀漢の基盤を築くことを目指した。
劉備が益州攻略に乗り出す際、彼は荊州の守りを関羽に託した。これは、関羽の武勇と統治能力、そして何よりも劉備への絶対的な忠誠心を深く信頼していたからに他ならない。関羽は襄陽太守(じょうようたいしゅ)に任命され、荊州の軍事総督としてその重責を担うことになった。彼の功績は、張飛や諸葛亮と同等と評価されるほどであった。
しかし、荊州の統治は決して容易ではなかった。東には虎視眈々と荊州を狙う呉があり、北には曹操軍が控えていた。関羽は常に両勢力からの脅威に晒されながら、荊州の防衛と内政に尽力した。彼は厳格な規律を重んじ、兵士たちを厳しく統率した。また、民衆に対しては仁政を敷き、その生活を安定させることに努めた。その結果、荊州の民は関羽を深く信頼し、彼を「武神」として敬愛するようになった。
一方で、関羽の性格が災いすることもあった。彼はプライドが高く、同僚や目下の者に対して傲慢な態度を取ることがあった。特に、南郡太守の糜芳(びほう)や公安の将軍である士仁(しじん)といった者たちを軽んじ、彼らの不満を募らせていた。諸葛亮は関羽の性格をよく理解しており、彼の自尊心を傷つけないよう細心の注意を払っていた。例えば、馬超が劉備に帰順した際、関羽が馬超の能力を諸葛亮に尋ねた時、諸葛亮は「馬超は文武に優れ、張飛に匹敵するが、美髯公(関羽)には及ばない」と返答し、関羽を喜ばせたという逸話がある。これは、諸葛亮が関羽のプライドを尊重し、彼を巧みに操縦していたことを示している。
関羽は荊州の守護者として、その武勇と統治能力を遺憾なく発揮した。彼の存在は、劉備軍にとって荊州を維持するための要であり、蜀漢の天下統一の夢を支える重要な柱であった。しかし、その高すぎるプライドと、周囲への配慮の欠如が、後の悲劇の伏線となることを、この時の関羽はまだ知る由もなかったのである。
4. 樊城の戦い:武神の絶頂と悲劇の序曲
建安二十四年(219年)、関羽は荊州から北上し、曹操軍の重要拠点である樊城(はんじょう)を攻めた。これは、劉備が漢中(かんちゅう)を奪い、漢中王に即位した直後のことであり、関羽は劉備の勢いに乗じて、さらなる功績を挙げようと意気込んでいた。樊城の守将は曹仁(そうじん)であり、曹操軍の精鋭が守りを固めていた。
関羽は樊城を包囲し、猛攻を仕掛けた。曹操は于禁(うきん)と龐徳(ほうとく)を援軍として派遣したが、関羽は天候を味方につけた。長雨により漢水(かんすい)が増水し、関羽はこれを巧みに利用して「水攻め」を敢行した。于禁の七軍は水没し、于禁は捕虜となり、龐徳は最後まで抵抗したが、ついに捕らえられ、関羽によって斬首された。この「水攻め」の成功により、関羽の武名は天下に轟き、彼はまさに「武神」と称されるほどの絶頂期を迎えた。曹操でさえ、関羽の勢いを恐れ、一時的に遷都を検討するほどであった。
しかし、この輝かしい勝利の裏で、関羽の傲慢さが悲劇の種を蒔いていた。この頃、呉の孫権(そんけん)は、荊州の返還を劉備に求めていたが、劉備はこれを拒否していた。孫権は関羽との関係改善を図るため、自らの息子と関羽の娘との婚姻を申し出た。しかし、関羽はこの申し出を「虎の娘を犬の子に嫁がせるわけにはいかぬ」と一蹴し、孫権を侮辱した。この傲慢な態度は、孫権の怒りを買い、呉との同盟関係に決定的な亀裂を生じさせた。
さらに、荊州の内部でも問題が起きていた。関羽は、食糧輸送を任せていた糜芳や士仁を軽んじ、彼らが任務を怠ったとして厳しく叱責した。彼らは関羽の傲慢な態度に不満を募らせ、内心では呉への降伏を考えていた。関羽は自身の武勇と功績に酔いしれ、周囲の状況や人々の感情に配慮することを怠っていたのである。彼の目には、天下統一という劉備の夢しか映っておらず、そのために必要な細やかな人間関係の構築や、同盟国との協調を軽視してしまっていた。
樊城の戦いは、関羽にとって武神としての輝きを最大限に放った戦いであると同時に、彼の傲慢さが露呈し、後の悲劇を決定づける転換点となった。この時、関羽は自らの背後に忍び寄る呉の影に気づくことなく、ただひたすらに勝利を追求していた。しかし、その勝利は、彼自身の破滅へと繋がる序曲に過ぎなかったのである。
5. 麦城の悲劇と武神の最期
樊城での勝利に沸き立つ関羽であったが、その背後では、呉の呂蒙(りょもう)と陸遜(りくそん)が周到な計画を進めていた。呂蒙は病と称して前線から退き、関羽を油断させた。そして、若き天才である陸遜を後任に据え、関羽に恭順の意を示させた。関羽は陸遜の若さを見くびり、その言葉を真に受けてしまった。この隙を突き、呂蒙は精鋭部隊を率いて荊州へと進軍した。
荊州の守りを任されていた糜芳と士仁は、関羽への不満と、呉の巧みな誘いに乗り、あっけなく降伏した。関羽は樊城での戦いに集中しており、荊州が陥落したという報せに愕然とした。彼の退路は断たれ、兵士たちの士気は地に落ちた。関羽は樊城の包囲を解き、荊州奪還を目指して南下したが、すでに時遅しであった。呉軍は荊州の各地を制圧し、関羽の家族も捕らえられていた。
関羽はわずかな手勢を率いて麦城(ばくじょう)へと逃げ込んだ。麦城は小さな城であり、籠城するにはあまりにも不利な状況であった。劉備や諸葛亮からの援軍を待ったが、彼らは遠く益州におり、間に合うはずもなかった。関羽は絶望的な状況の中、最後の抵抗を試みた。彼は何度も城外に出て呉軍に挑んだが、多勢に無勢、兵力は次第に消耗していった。
麦城での籠城は、関羽の武勇と不屈の精神を際立たせた。しかし、彼のプライドと傲慢さが招いた結果でもあった。同僚を軽んじ、孫権を侮辱したことが、この孤立無援の状況を生み出したのである。兵士たちは飢えと疲労で倒れ、城内には絶望感が漂っていた。関羽は、もはやこれまでと悟り、わずかな手勢と共に城を脱出し、蜀への帰還を目指した。
しかし、呉軍はすでに周到な包囲網を敷いていた。関羽は陸遜の伏兵によって捕らえられ、孫権のもとへと連行された。孫権は関羽を配下に加えようと説得したが、関羽は最後まで劉備への忠誠を貫き、これを拒絶した。建安二十四年十二月初旬(220年1月)、関羽は故郷から遠く離れた地で、非業の死を遂げた。彼の首は孫権によって曹操のもとへ送られたが、曹操は関羽の義を称え、諸侯の礼をもってその首を葬ったという。武神とまで称えられた一人の英雄の生涯は、かくも悲劇的な幕切れを迎えたのである。関羽の死は、劉備と張飛に深い悲しみと怒りをもたらし、後の夷陵の戦いへと繋がっていく。
6. 終章:神となった関羽
関羽の死は、劉備と張飛に深い悲しみと激しい怒りをもたらした。特に張飛は、兄の仇を討つべく呉への復讐を誓い、酒に溺れて部下に厳しく当たるようになった。そして、その部下によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げる。劉備もまた、関羽と張飛の仇を討つため、そして荊州を奪還するため、呉への大遠征を決意する。これが、蜀漢の命運を分けることになる夷陵の戦いである。しかし、劉備は陸遜の火計によって大敗を喫し、その傷がもとで志半ばにして崩御する。
関羽の死は、蜀漢の国力に大きな打撃を与え、天下三分の計の実現を困難にした。しかし、彼の「義」を貫いた生涯は、後世の人々に大きな影響を与え、やがて彼は「神」として崇められるようになる。
関羽は、その生前から武勇と義侠心で知られていたが、死後、その信仰は急速に広まった。特に明の時代には、関羽は「関聖帝君(かんせいていくん)」として神格化され、武の神、財の神、そして義の神として広く信仰されるようになった。彼の信仰は、中国全土に留まらず、東アジア、東南アジア、さらには世界各地の華僑の間にも広がり、数多くの関帝廟が建立された。
なぜ、関羽はこれほどまでに人々に愛され、神として崇められるようになったのだろうか。それは、彼が生涯を通じて貫いた「義」の精神が、時代を超えて人々の心を捉えたからに他ならない。主君への忠誠、兄弟との絆、そして一度受けた恩は必ず返すという彼の生き様は、多くの人々にとって理想の姿であった。彼の高すぎるプライドや、人間関係における不器用さといった欠点も、神格化される過程で美化され、あるいは人間的な魅力として受け入れられた。
関羽の物語は、単なる歴史上の武将の生涯に留まらない。それは、乱世の中で「義」を貫き通した一人の男の生き様であり、その精神が後世にまで語り継がれ、人々の心の拠り所となった壮大な叙事詩である。彼の存在は、私たちに「義」とは何か、忠誠とは何か、そして人間としていかに生きるべきかを問いかけ続けている。武神、関羽雲長。彼の名は、これからも永遠に語り継がれていくだろう。